新説−植民地にならなかった日本

 

「日本は何故植民地にならずにすんだのか」ということについては諸説あり、たくさんの本が出ている。大方の意見は、すでに科学技術や経済制度には江戸時代にその萌芽があり、産業革命を受け入れるだけの下地が整っていた。そこに日本固有の精神文化が加わってというような展開であるように思える。島陶也氏の「植民地にならなかった日本―地形と気象の観点から−」(建設オピニオン・平成206月号に掲載)に、小生にとっては全く新しい説を見つけたので紹介したい。著者は3つの理由をあげている。

@    何もなかった論

A    災害列島論

B    参勤交代による逆単身赴任論

一番目はヨーロッパ人にとって魅力的な産物も資源も、何もなかったということで、これは諸氏も多分どこかで耳にしたことがある説ではないかと思う。しかし、AとBは、なかなかの異説ではないかと思うのだがどうだろうか?

 

 著者に言わせると、何もなかった日本にあり余るほどあったのは、災害と疫病であったという。18544月に日米和親条約が結ばれた直後から、巨大地震を含めて相次いだ災害が西洋人を怖がらせて容易に寄せ付けなかったというのだ。以下はそのリスト、

18547月      安政伊賀地震 M7.6 伊賀、伊勢、大和にかけて約1800名の死者

185412月    安政東海地震 M8.4 駿河湾から遠州灘一帯

                             伊豆下田に停泊していたロシア船ディアナ号は津波により大破・沈没

           安政南海地震 M8.4 紀伊半島一帯

           合わせた死傷者は、1〜3万人といわれている 

185511月     安政江戸地震 M6.9 7千人から1万人の死亡者といわれている

                            (さらに、この3大地震後も9年間に渡る余震は3000回を数えたという)

1858年             コレラが蔓延し死者20万人(長崎から上陸)

1859                大雨による利根川・荒川の決壊。江戸市中は大水害に見舞われた    

確かに資源・産物が何もなくて危険ばかりが目立つ災害列島であることが、西洋人を恐怖させ、植民地化も割に合わないと判断させたと言えそうである。

 

 もう一つは、江戸を中心として日本が文化的なまとまりを持っていたことである。そして、その文化的まとまりを作り出したのは参勤交代という制度であるという説である。西洋人が植民地支配をする時の常套手段が分断統治だというのはよく知られている。フランスが徳川を応援し、イギリスが薩長を応援したという事実からしても、日本人同士が分裂して、血で血を洗う戦闘になっても不思議はなかった。これを大政奉還という世界史的にはあり得ない方法で解消してしまった。しかし、それができた根っこには、同じ日本人、同じ文化を共有する同胞だという意識が存在したという。そして、それを可能にしたのが、参勤交代という制度であるという。参勤交代は、殿様が江戸住まいと国元住まいとを交互に繰り返す。しかも、殿様は江戸に単身赴任するのでなく、国元に単身赴任する。なぜなら、奥方や子供は人質でずっと江戸住まいだからだ。江戸住まいの奥方から生まれた子供が殿様になるわけだから、殿様は2代目3代目になるとほとんど江戸生まれのケースが多いという。ちなみに薩摩の島津斉彬は江戸生まれなのだそうである。江戸生まれの殿様につきあわなければいけないから、その部下たちも江戸の文化や言葉にふれるし、江戸生まれもいれば、江戸留学組もいる。要は、日本という広がりを持った共通文化・共通言語を生むことができたというのである。確かに、当時の藩は国であり、藩の利益を一番に考えていた人たちはたくさんいたはずである。著者は、江戸開城の交渉にあたり、勝海舟と西郷隆盛が通訳なしで話をできたということを改めて指摘している。言語が通じあえたからこそ、通訳を通さずに話あえたからこそ、可能となった妥協である。日本がほとんど血を流さずに政権交替できたのは、参勤交代のおかげということである。

 

 日本災害列島論と参勤交代による逆単身赴任論、小生には目から鱗というほど新鮮であった。(金井章男 2008年8月)
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