水戸黄門の精神構造

 日本で根強い人気のドラマに「水戸黄門」、「大岡越前」、「遠山の金さん」といったものがある。このドラマは配役を代え何度も放映されている。結果が最初から見えている勧善懲悪もので、何処からみても筋立てが分るし、何処で抜けることになっても、それほど悔しさがない、心の平安を乱さないという点では非常に優れている。

 この3つに共通する点は、ヒーローが市井の一般人に身をやつし隠密裏に悪事を探り出し、最後に官の立場を明らかにして悪人を処罰するパターンである。見せ場は、ヒーローが隠密裏に調べていたことを、そして断罪する官職にあるその人が目撃していることを告げ悪人を沈黙させる場面であり、ヒーローに救われた庶民達が「ひぇー、あの方は、そんな偉い方だったんだ。」と驚く場面なのである。この場面にもっていくために、悪人達は悪行の限りをつくし、無辜の民と目される人達が虐げ続けられる。悪人共の憎憎しさと、庶民の純朴さと悪人に痛めつけられ続ける悲惨さは、最後のこの場面を盛り上げるための前奏なのだ。

 ここで不思議に思うことは、これほど人気を保ち続けるヒーロー達がどうして,皆、官の立場の人なのだろうかということである。やはり、官はあてにならないものではなくて、名君、名判官とかいう人達が現れて、天網恢恢とか言いながら、悪を倒し、本来のあるべき道に戻してくれるというパターンが日本人の好みにあっているということなのか?今は悪政という状態であっても、いつか名君が現れ隅々まで善政をしいてくれると儚い夢を皆が見ているということなのか?

 本来、国や政治制度や官僚機構といった仕組みは、人々が共同生活を営むためにつくりだした道具である。政治家や官僚が持っている権力は、その道具が機能するために与えられているのである。自分が権力を与えた道具が、期待どおりに機能しているかをチェックしていく義務もそれを作った本人である市民にある。官は常に権力を求め自己増殖し肥大化する。一度権力を与えられたら、腐敗は常につき物で常にチェックが必要だ。官を自らチェック・監督するという発想が乏しいのは、自ら民主主義をつかみ取って自ら国の制度や機構を選び作った経験がないからなのだろうか?そういえば、徳川幕府から明治政府というお上に移り、進駐軍という別のお上に与えられた市民社会という経験しか持っていないのが日本なのかもしれない。「おとなしく良い子にして待っていれば、何時か名君が現れて.........」という精神構造は、このドラマの原因なのか結果なのか?

 むしろ、このドラマを見る時に注目すべきは、
第一に、大商人あるいは御用商人と結託して民を収奪する腐敗役人が必ず出てくることである。敵役の悪代官のせりふで「○○屋、お主も悪だのう」は黄門様の印籠の場面と同程度におなじみではないだろうか。権力は腐敗する物だという事を毎回しつこく描いている。
第二に、主人公は、それを暴くため、変装したり、庶民に混じって市井を見廻ったり、諸国漫遊の旅に出たりする点である。要は、お忍びというやつである。腐敗をチェックする方法というのは、権力構造の内部チェックなど期待できず、外部からの監査・監督プラス抜き打ちでなければならない事を教えている。人格高潔で清貧でよしとする人材が、その地位につく事を待望するより、そうでない人間の方があたりまえという事を前提にした仕組みを考える必要を教えている。
第三に、「水戸黄門」や「遠山の金さん」や「大岡越前」の地位に別のアホが座る可能性である。「水戸黄門」の敵役には犬公方と呼ばれる将軍綱吉が登場する。彼は、将軍であって天下の副将軍の「水戸黄門」より偉いのである。また、南町奉行の「大岡越前」に対して、北町奉行所の役人がセクショナリズムから捜査の邪魔をする場面がよく出てくる。


 あのドラマを見てスカッとする精神構造から抜け出し、権力は腐敗するという当たり前のことを、何度も何度も繰り返し勉強させてくれるシミュレーションと考えるべきだろう。何時か、立派な人物が総理大臣になって、悪や腐敗を裁いてくれると待っていても、そうなる可能性は低い。むしろ、不適切な人物がその地位についた時に何ができるか?また、適切な人物がその地位に就くために何ができるか考えるべきだろう。そんな事を考えていると、全くスカッとできるような話では、なくなってしまうのだが。

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