おじさん・おばさんという言葉について

 

 少年犯罪の多発化・凶悪化や学級崩壊等のニュースが流されるたびに、この世代の心の荒廃を痛ましく思うとともに、このような心の荒廃をもたらしている物は、一体何なのかと問わざるをえない。その原因の一端に、おじさん・おばさんという言葉の使い方があると思う.

 

 いつのまにか、おじさん・おばさんという言葉は良くないものやさえないものの呼び名になってしまった。おじん、おばんという呼びかたもあったが、おじさん・おばさんと渾然一体となってしまったようだ。その昔、おじさんはヒーローになっていた時代があったように思うが、今ではお兄さんでなければヒーローにはなれないようだ。それは、どうも手前勝手で図々しくて古臭いというようなイメージがおじさん・おばさんという言葉に焼き付いてしまったことによる。

 若い人達/子供達は、おじさん・おばさんという言葉に軽蔑臭がついていることを知っている。そして、彼等は、おじさん・おばさんを馬鹿にすることにより、両親を馬鹿にし、先生を馬鹿にし、世の殆どの大人を馬鹿にする事を意識せずに行なっている。また、馬鹿にされないためには、馬鹿にされるべき対象を馬鹿にしなければならないことを感じ取っている。だから、自分を守るために馬鹿にさるべき対象を力の限り馬鹿にし拒否する。彼らにとって不幸なのは、彼等自身も時がたてば、その馬鹿にしているおじさん・おばさんに近づいて行ってしまうことを知っていることにある。人は誰しも年を取っていくことなど子供のうちから解るのだから、自分が時を経れば馬鹿にしていたそのなりたくなかった者に変わって行くことを意識せざるをえない。腐っていく、朽ち果てていく自分を感じながら、なんの食止める手段もないという絶望的心理状態ではないかと思える。

 確かにテクノロジーの急速な進歩が昨日の知識・ノウハウを陳腐化し、大人達の大部分が漠然とした不安をかかえているし、新しい知識・体系を学び受容していく力は若い人達のほうが一般に優れていることも分っている.だから、子供達が敏感にそれを感じ取り、大人達を馬鹿にしているのか、また、大人達はそんな自分の弱みを感じとってそれを受け入れているのか?どうも、そうでは無いような気がする。大衆による大量消費時代といわれる時代に入った時、新しい流行を取り入れいち早く、新商品を買ってくれるのは若い世代であった。その上の世代は、新しい流行に着いて行くよりも生活優先であり、ファショナブルと言うわけには行かなかった。だから若い世代を大事にし古い世代を馬鹿にするする経済的必然性があった。それでも初期の頃は、デパートの特売品売り場で商品の取り合いをするような極端な行為をさして「また、おばさんが」と使っていたような気がする。それが、いつのまにか年を取ることがいけないかのような使い方になり、マスメディアにも、女子高生が20代前半の昔なら妙齢といったような女性をおばさんと呼んでみたりするシーンが登場するようになった。大量消費時代を迎え、新商品を買ってくれる若い世代にマスコミが、またそれを道具にしている産業界が若者分化に軽くおもねったにすぎない。ただ、おじさん・おばさんという成人一般を表わす単語を使ったところに大きな問題があった。

 どうして、こんな成人一般を表わす言葉を使ってしまったのか?残念であるが、その報いは多大であった。前に述べたように、自分が成りたくない、あるいは馬鹿にしていたおじさん・おばさんになっていくというのは、回避する手段が無い以上、絶望的状況だと思う。よくおじさん/おばさんじゃなくてお兄さん/お姉さんだと小さな子供に言い聞かせる場面を見かけるが、子供から見ればある一定以上大きな人(=年を取った人)はおじさんであり、おばさんなのだ。おまけに、兄弟姉妹に子供があれば、まさしく年令とは関係無くおじさん・おばさんと呼ばれるのが正当なのだ。この子供や若者の絶望状態を解消するには、おじさん・おばさんという言葉から負のイメージを取り去るか、おじさん・おばさんに代わって成人一般を表わす一般呼称を作り出して定着させることである。しかし、一度汚してしまった言葉をきれいにするのは難しい。蔑称というものは一度使われ出すと、元の意味も由来も無視されて汚れ言葉になってしまうのだ。ある種の言葉が差別用語と指定され、マスメディアで使用禁止されているのは言葉の浄化が不可能と考えられているからだろう。それでは、おじさん・おばさんに代わる一般呼称を作りだし普及させることはどうだろう?言葉も文化の一端であり長い時間をかけて変わって行くもので、これも決して簡単ではない。簡単ではないが、おそらく浄化よりも可能性がありそうだ。時間がかかるなら、なおさら早く最初の一歩を踏み出す必要がある。子供達を、馬鹿な言葉使いをした報いから救ってやるのは、大人の責任である。

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