居眠り運転の結果は

 

失敗がおこりそうな複線は諸々あった。私はロサンゼルスに駐在して、ロスばかりでなく、シアトル、サンフランシスコの不動産物件を管理していた。平日は、なかなか一日以上とって物件を見にいけないので、出張者二人と一緒に、土日の週末を使ってサンフランシスコ近郊のミッションウエルズとノースリッジパークという物件を見に行くことにした。

1.      普段、家族をどこにも連れていっていないので、この視察に家族を連れていくことをお願いした。こころよくOKをもらった。

2.      ところが、金曜の夜を出張者二人とハリウッドでエンジョイした。翌日は、ロサンゼルス空港まで朝が早いにもかかわらずである。自分だけならともかく、家族を一緒に連れていくのは余分に時間がかかるから、より早起きしなければならない。

3.      サンフランシスコからはレンタカー。家族を連れていくことにした結果であるが、車は2台になった。ここで、お互いがはぐれた時に別々に着けるようにしておけばよかったのだが、地図や書類の用意が不足で、必死についていかなければならなかった。

 

という事情である。しかし、夜遅くまで飲んだ上に、早く起きて空港に行かざるをえなかったため眠くなってきた。サンフランシスコ近郊の物件を回っているうちは何とか我慢していたが、サンフランシスコからフレスノ市近くのプロジェクトに向かいだしたあたりから本当に眠くなってきた。2台に分かれて、行先は先頭車まかせだから必死に着いていく。出張者は先輩だし、「待って」のお願いもしにくい。女房に代わってといったら、「私も眠い」と断られた。サンフランシスコの街を離れたら、単調な一本道になってきて、ますます眠い。

 ふっと眼を開いた時には、相当に右に切れ込んで走っていた。立て直す時間もなく、右にある反射板にあたった。ここで右に落ちないようにという意識が働き、ブレーキを踏むと同時に左にハンドルを切った。怖さからハンドルを切り過ぎたのだろう。ハンドルが利かなくなり、左に滑りだしてしまった。ようやく右に切りなおして止まった時には、反対車線に飛び込んでいた。反対車線の車も、自分の車線の車もすべて止まった。誰もケガはなかったが、子供たちなど、すっ飛んで転がっていた。みんな寝ていたので、「わ〜、ぶつかる」という恐怖の一瞬を味わったのは私だけというのは幸いだった。「stupid!」とか悪態をつきながら、後ろの車がすり抜けていくのに耐えながら、「アメリカ人の皆様、御免なさい」、「アメリカで大恥かかなくてよかった」などと思いながら、車をすごすごと自分の車線に戻した。本当に恥ずかしながら、すごすごと車をころがした気がする。先頭車も待っていてくれた。相当のアドレナリンが出ていたのだろうが、汗べっとりでもまだ眠かったのは不思議だ。妻に運転を代わってもらった。

 

 後で調べたら、ボンネットには反射板の跡がくっきりと残っていた。反射板の支柱がパカンと直角に折れ曲がって、ボンネットの右端に打ちつけて跡を残したことになる。まったく運だけで生き残った。反対車線だってけっこう交通量は、あったのだ。たまたま途切れていたから、反対車線に飛び込んでも衝突せずにすんだ。一家で死んだ恥ずかしい日本人になるところだった。ちなみに1992年くらいの話だから、私が40歳手前、子供たちが4歳と2歳頃のことである。我が一家のみならず、誰にも災禍を及ぼさなくて本当によかった。運のみで生きてきたんだなと思う人生である。

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