靖国参拝とテロ

 

 小泉首相の靖国神社参拝にたいして違憲だという訴えがあり、小泉首相は「話にならない」「おかしな人がいる」といっているそうである。一方、テロに対する国際的戦いに支援するとして自衛隊をアフガニスタンに派遣しようとしている。これは大きな矛盾ではないだろうか?

 

 ニューヨークにおけるテロの首謀者とされるオサマ・ビンラディン氏がひきいる集団は、イスラム原理主義を精神的柱としているという。二本の高層ビルに旅客機をつっこませることにより

5千人、6千人といわれる犠牲を作り出した。しかし、この犠牲を悼むことはもちろんであるが、この犯人たちの行為は自己犠牲をともなう自爆行為だったことにも焦点をあてたい。おそらく犯人自らが操縦桿をにぎりつっこんでいったからこそ彼等の望む成果を得ることができたわけである。おそらく彼等は使命を果たし満足して死んでいったのであろう。彼等は正義のために大義のために戦い死んでいくのだと信じているからこそ、自爆テロなどという行為ができるのである。彼等にそこまで彼等の正当性、彼等の正義を信じさせているのは、宗教である。宗教と政治が関係するといかにやっかいなことになるかの典型である。

 

 パレスチナにおいては、イスラエルに対するテロまたは自爆テロが幾度となく繰り返されてきた。9・11同時多発テロの後も民族と宗教の違いは憎しみをここまで増幅するのかと思えるような事件が何度もおこっている。その自爆テロに関する報道の中に、マヘル(犯人)の家族へのインタビューがあった。母親がマヘルは良くやったと言い、誇りに思っているという。更に次の息子も続いてほしいという。パレスチナの街角で遊ぶ子供達に聞けば、彼等もマヘルに続いて英雄になるのだという。マヘルの写真が街角のあちこちに何枚もはられ、これまでの自爆の英雄たちの写真と共にならんで賞賛されている。パレスチナの多くの人々にとっては、彼は救国の英雄であり正義そのものなのだ。

 

 

 テロという範疇では、日本にも世界を震撼させたオウム真理教の地下鉄サリン事件がある。これもオウム真理教という宗教が、サリンを地下鉄の中で撒き散らすことを正義と教えたからこそなされたことである。犯人はこれが自分の魂を救い、世界を救うと思ってやっているのである。さらにこの教団は、政治を行うための省庁に似たような組織さえも持っており、幹部が○○大臣を名乗っていたのも記憶に新しい。政教一致の世界を夢見て彼等は聖戦をやっていると思っていたのだと思う。物質的に満ち足りた飽食の社会に生み出された似非宗教と呼ぼうがなんと言おうが、尊師浅原彰晃を信じた人々にとっての正義と、イスラム原理主義を信じてテロを行う人々の正義とどれだけ違うものなのか?

 

 そして、自爆特攻の元祖は日本である。人間魚雷や神風特攻はあまりに有名である。これも、お国のため死んで帰れば靖国神社に祀られ神になるという気持ちのありようは、パレスチナのマヘルの話とどれだけの距離があるのだろうか。純粋に国のことを思い、強大な敵に決死の自爆攻撃をかけるという意味で、マヘルの自爆には共通することが多い。戦争をしていたのだから、日本はテロを仕掛けたわけではないと言えば確かにそうだ。しかし、パレスチナを見るときには、あそこまで憎みあわなくてもいいのにとか、あそこまで命を粗末にしなくてもいいのにと思いながら、日本の特攻や万歳突撃や南東の島々での玉砕を美化して考えていたのでは片手落ちというものだろう。城山三郎氏が小説「一歩の距離」で、「富士は神州のしるしであった。神国日本に生きていることを、毎日、感じさせてくれた。その国での生甲斐は、現人神である天皇に帰依し、醜の御楯となって死ぬことである。死んで護国の神となることである。」と特攻に志願する若者の心を書いている。自分の正義を疑うことなく、美とさえ感じているからこそ死んでいけるのである。

 

 日本の総理大臣が終戦記念日に靖国神社に参拝するということは、単純に戦没者を弔うこととは違う。総理大臣の行為は、基本的に何をやっても日本国を代表しての好意であり、その重みに耐えられない人間ならその地位を辞退すべきであろう。戦争を美化し、死ぬことを美化した戦時中の精神構造そのものであり、それを支えた宗教そのものである靖国神社で、戦没者を弔う国としての行事はやるべきでないと思う。中国や韓国がつべこべ言うからやめるのではなく、日本の中にも、靖国神社という一特定宗教を通しての慰霊という形に対する疑問を感じている人間がたくさんいるはずである。一方、人間が利害の対立を解決する手段が殆どの場合、武力であったことを思えば、国を守るために戦った人々の心を足蹴にすることがあってはなるまい。国を守るためにささげられた犠牲に対し感謝と尊敬の念を表す行事はなんらか必要であろうから、全く新しい場所を設け改めて戦争と平和について考える機会としたいものである。

topへ