景気刺激策---定額給付金の迷走

 

サブプライムローンによる世界的景気後退にひきずりこまれている日本経済の景気浮揚策として、定額給付金だ、高速料金の1000円まで引き下げだと騒いでいる。麻生総理は解散している場合ではない、100年に一度の経済危機なのだから景気対策を打つのが先だと、解散のタイミングを就任時のイメージより後ろに延ばしを始めた。解散騒ぎより景気対策をタイミング良くというのは正しいと思うのだが、この対策の中身がよくない。どうも、選挙前のバラまきを行い、少しでも自分と自民党の人気を取り戻そうとあがいているといわれてもしかたがあるまい。

 

 当初、全所帯に支給すると言っていた定額給付金を、「高額所得者は除く」と変更するようだが、制限するかどうか自体に足並みがそろっていないようだし、制限金額をきめるのも簡単ではなさそうだ。しかし、最大の問題は制限を行うのには事務コストと時間がかかることである。この予算総額の見当は2兆円くらいらしいのだが、そのうちの大きな部分を事務コストに食われたのでは話にならない。確か、地域振興券というやつを配った時には、近所の小学校に行って並んだのを覚えている。まるで選挙の時と同じであったように思うから、ずいぶん事務コストがかかっていたのだろう。そこで「引換券を全世帯に配布し、市区町村の窓口に持参した世帯に支払う方式を導入し、その中で、引き換え券に所得制限額を明記して高額所得者に申請しないよう呼びかける案が出ている。」(読売新聞2008年11月8日)のだそうである。一方、「与謝野経済財政相は、高額所得者は辞退するというのは制度ではないとこうした仕組みに否定的な考えを示した。」(同上)ということである。確かにNHK受信料を確信犯として払っていない人がたくさんいたり、国民年金を全く払っていない人がいくらでもいたりする世の中である。人間性悪説というより、人間性弱説に立つべきではないか? 人は弱いものであり、それを試すようなことをしてはならない、最初から悪に誘われるような制度を作ってはならないということである。

 

 しかしながら、いまやっている議論は二つの意味で外れている気がする。一つは、国民全員に金を渡すということで、本当に消費が戻るのかということである。地域振興券の時のように貯蓄に回る可能性が大である。そもそも税金を集めるのは個人個人に任せておいてできない何かに使うためである。それが、警察であったり、消防であったり、インフラであったりするわけである。今、皆が納得できるテーマはいくらでもあるのではないだろうか? 中国・四川省の大地震の時に日本の学校の耐震化が不十分との指摘がずいぶん取り上げられたのだが、もう忘れられてしまったのだろうか? 耐震化が不十分な学校の対策につぎこんだらどうだろう。こんな時にこそ予算がつけられるのではないだろうか?また、新潟県中越沖地震では水道・ガスの耐震化の不十分さが浮き彫りになった。配管を割れに強く、揺れに対して抜けにくいストッパーつきのものに換える必要があるのだが、全国で行うとした37兆円くらいの予算が必要ではないかとも言われているそうである。(読売新聞2007年7月28日) 消化できないではないかという意見が出そうだが、重要なことは何時までに使われるかとか、消費されるとかではない。この社会の不安や停滞を醸し出している問題が解決されていくという実感が重要なのである。また、時間がかかっても、その金は必要なところにつかわれていくのである。まずは大事な子供が死なないという意味でも、しっかりした地域の避難所を確保するという意味でも金のかけどころである。更に洞爺湖サミットであれだけいって2050年半減などと目標値までいっているのだから、太陽光発電に関する政府補助を大幅にふやしてもよいのではないか? これは家屋でも発電所でも良いだろう。エネルギーのほとんどを輸入に頼っている日本には有効な政策だろう。今回のように有効需要政策が必要そうな場面というのは必ずある。政治家は金さえあれば(あるいは無くてもというほうが正しいかもしれない)、どこに使うか、使いたいかを常に考えておくべきものではないか? 我々の明日は、明るいのだ。そこに向かって一歩ずつ向かっているのだと思わせてくれるようなリーダーシップが必要なのである。

 

 二点目に指摘しておきたいのは、もしこのような直接的に給付金を渡したい時や、減税をしたい時にコストをかけないためには、アメリカのような社会保障番号(social security number)を使うことである。徴税にも年金のような社会保障にも統一されたID番号を使うのだが、日本では国民総背番号制度として排斥されてしまった。しかしながら、個人一人ひとりを区別するには、一意の番号をつけるか、必ず他人とは違う名前をつけるように強制するかである。後者は難しいから番号をつけるわけである。どんな政策を打とうとしてもそのコストが高ければ話にならない。小さな政府というのは金を使わないために何もしない政府ではない。安く同じことができるようにするのも小さな政府への努力なのである。年金という仕組みの有効性について疑わせることになっているのには、年金の記録があまりに不完全であったことも大きな理由のひとつになっている。社会保険庁のお役人のあまりなサボタージュと質の悪さに隠れているが、いかにも仕組みの土台が悪いのである。この制度改革にも力をそそいでもらいたいものである。このような整備をした上で本当に困っている人に、金を渡すことが重要なのだろう。それは、職を失った時の失業手当の手厚さであったり、所得基準である一定額以下の世帯に対する補助であったりして、きめ細かで確実なデータによらなければ正確に届くべき人間に届かない。ただ薄く金をばらまくだけでは景気はよくならないし、不安や停滞感は消えない。

金井章男(2008.11.11)

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